住宅とサステナビリティ
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住まう
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住宅のイミを考え直す
7世代先までを考え、住まえる家
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工業住宅から天然住宅へ
ここまでのまとめも兼ねて、工業住宅 と 天然住宅 というモデルをつくってみました。
工業住宅:
住宅が「住宅」というモノとして、他とのつながりから切り離されています。
海外の森林を伐採し、防腐防カビ処理をして船で運び、急速に高温乾燥し、化学工場でつくった接着剤で集成材として使います。さらに合板等、有害化学物質を約1トン使って、合理的な住宅を組み上げます。高断熱以外の省エネはキャッチーな設備が主。オール電化などで中はなんとなくエコっぽいのですが、外には原発などの非持続型のエネルギーに依存します。ソーラーパネルや電気床暖房、I H クッキングヒーター などは健康上の大きなリスクをはらんでいます。こんな家なのでシックハウスです。高気密なので24時間機械換気をしていますが追いつきません。結果的に、国内の森には手入れされない杉が数多く残り、林業は崩壊。産廃も増加の一途。海外でも環境が破壊され、その地の文化や食い扶持が破壊され、温暖化〜異常気象が起こっています。伐採や採掘に先立っては、住民を追い出すために軍隊(空爆、対テロ行動)や地元警察の動員がされることもあります。一方、30年程度しかもたないのに、ローンに追われています。化学物質も含めた複合的な要因で家庭内もイライラが多く、いのちや自然の大切さ、お互いと自分の尊重への余裕がなくなっています。効率的ですし、消費的には豊かなようなのですが、買っても買ってもキリがないようです。オカネがないととても不安で自分の中に芯がないような感じさえあります。これが発展ということなのか?疑問も湧いてきますが、グローバリゼーションの世の中では、社会も文明も全部がそうだから仕方がないのでしょうか・・・
天然住宅:
住宅が、まわりとのつながりの中での「住まい」として位置づけられています。
国産、地域の自然乾燥した木材を用い、地元の職人の手技を使うことで、手刻みの無垢材を活かしてくみ上げます。高断熱はもとより、太陽や風などの自然の力を利用した、構造での省エネが主で、植物などによる緑のカーテンも積極的に。また補助的に太陽熱温水器やペレットストーブ(ペレットは地元のもの)小型のソーラーパネル、雨水を利用します。もちろん有害化学物質はほぼゼロといってもよく、適度な気密/通気があるので、たいへん快適。シックハウスの危険性はなく、カビやアレルゲンも発生しにくくなっています。家の周辺では自然の力にあやかって半農半X的に農的生活も行っていますし、入会地などコミュニティの場も多様に利用しています。実際は井戸端会議や祭りの場だったりもしますが。伐採の後は、山には広葉樹と針葉樹の混交の形で生物が多様に生きられるように手入れをします。川には豊かな養分が戻り、海も豊かになります。里には棚田もできてくることでしょう。海外には迷惑をかけず、豊かな自然と経済を自力で復活できるように応援しています。100年以上の長寿命ですので、ローンは実際にはそんなに苦しくありません。資産としての価値も時とともに上がっています。山や自然や地元や近所の人たちとのつながりの中に生きている安心感があります。風通しも気の流れもとてもよいので、いつもリラックスしていて、家族は仲良しです。お客さんが帰らなくなるのが玉にきずですが (^ ^)。豊かなので、下手な消費もする必要がありません。お互いに助け合っていくのも楽しみの一つになっています。いのちの大切さにはいつも感謝せずにはいられません。エコ、健康、持続可能、サステナブル、ロハス、オーガニック、パーマカルチャー、ローカリゼーション、自分にイエスと言えるような生活が結構できているのではないでしょうか。
100年以上先まで
100年先まで、考えて欲しい、想像してほしい、選んで欲しい、住んで欲しい
ここまで、健康でエコな住宅 という観点から、住宅に求められるさまざまな質の部分を扱ってきました。しかし、忘れないでいたいのは、そもそも「住まう」ということは、本来だれのものでもないこの地球で、人の勝手で地面を占有し、そこに他者を排除もするプライベートな空間を作ることでもあるということ。
それをいけない とするのではなく、そのことについて十分に自覚し、地球やこの自然に住まわさせていただいていることに対する感謝を返していくことを日々意識していってはどうでしょう。地鎮祭にはそういう意味もあります。そしてさらに私たちの生きる意味を肯定的に問い続けていく事ができればどうでしょう。
例えば、木造であれば何十年と生きて来た木を伐り、その命をいただいて家とします。であるからには、出来うる限り永くそこに住まい、愛おしみ、大切にしながら、家としての第2の生を共に生きる仲間としてつきあっていきたいものです。宮大工は、100年の杉を切れば、建物は必ず100年以上はもたせなければならないという思いで仕事をされるそうです。
また、「住まう」ということは、衣食住の「住」だけでは実はありません。どのような「食」を、どのような「医」を、どのよう「育」を、「働」を、「愛」を、そして「死」と「誕生」をそこで営んでいくのかの全てに関わります。家は「いのち」の場であり、命を紡ぐ「器」でもあります。「地球に住まわせていただいている」責任に気づきながら、永い先まで持続可能な暮らしとは何か、健康で自然とも共生していけるような「食」や「働」とは何か を自らに問い続け、試みながら、住まっていける「場」としてもあるべきでしょう。そして、「住まい」とそれにつながるたくさんの命たちと、私たち自身もひとつの生きものとして、深い息づかいを感じ、豊かさをいただき、明日への力として自然に感謝を返していけるように。そんな交歓の「場」としても「住まい」があれば…と思います。
健康を害さない家であることはもちろんのこととして、心地よい家、健やかになれる家、元気になれる家、家族や訪れる方々と仲良くなれる家。子を安心して育てられる家。
材料や素材の調達/加工/輸送過程や家の廃棄過程でも、無駄なエネルギーをできるだけ使わず、再利用、リサイクルでき、廃棄物もエネルギー源となり、住まう時も省エネ、創エネできる家。
林業や職人に正当な対価/雇用を提供し、山林の手入れができ、木にまつわる伝統技術も進化していける家。
日本の山々は、必ずしも野生のものばかりではなく、里山や雑木林として、間伐/間引きなどを通して永い年月の中で人と山が共生してこれるような環境を作ってきました。針葉樹ばかりの山ではなく、広葉樹を含み、熊をはじめとした豊かな生態系/文化が人とともにあったのはそう古い話ではありません。木をただ保護したりただ植えるばかりでなく、適度に伐り、そこにある林業も生業として環境と生態地域して共生しながら持続していけるような、人と自然がお互いに嬉しくなれるような、住宅産業と林業の連携の模索がもっと必要な時期が今です。
戦後、都会と農村の分離、核家族化が進み、家族の形が大きく変わりました。また、縁側(えんがわ)がなくなっていったように、家と近所の関係もプライバシー重視の方向に大きく変わりました。しかし今、コミュニティが見直され、エコビレッジにも関心が増しているように、家族の形、近所の形、コミュニティの形、地域の形、クニの形、地元の形、グローバルコミュニティの一部としての形、歴史の紡ぎ方、ひいては文明の形 も今後変わってゆくと思われます。森を大切にしない文明は全て滅んできました。「文明」のあり方が問い直される中、当然、住まいも変わってゆくことでしょう。単なる「住宅」ではなく、コミュニティや暮らしの形から、「住まい」が浮かび上がってくるような。
どんな「住まい」をこれから求めていきますか?
それは
どんな生き方をこれからしていくのか、を問い続ける事にほかなりません。
家を建てるということは、ライフスタイルを見直す、いいきっかけにもなります。
アメリカの先住民は大事なものごとを決める際には7世代先までを考えて意思決定をしたそうです。家は一生の買い物ともいいますが、建てるのであれば100年後の子孫にも自信をもてるような「住まい」をつくり、進化しながら永く住まい、つきあい続けたいものです。
「天然住宅」もその一助となれば幸いです。 |